ご挨拶(理事長)
「信陽舎の運営理念 ~人格を培うための場~」
公益財団法人信陽舎 理事長 福与卓臣
長野県人学生寮・信陽舎の運営理念と言えば、寮の食堂に掲げられている加納金三郎第2代理事長の筆になる広瀬淡窓の詩の一節「君は川流を汲め、我は薪を拾わん」と、宇佐美珍彦第3代理事長が寄宿舎生活を詠んだ一節、「友の憂いに吾は泣き、吾が喜びに友は舞う」との言葉に凝縮されているのではないかと考えます。
私の70余年の人生を振り返ってみたときつくづく思うことは、信陽舎で過ごした3年間の寮生活の貴重な経験が、その後社会人になってからの人生に大きな財産となったということです。
“人間として世の中に生きる”とはどういうことかを考えるとき、いつも頭に浮かんでくるのは司馬遼太郎の次の言葉です。『“人” という字をよく見ると、ななめの画がたがいに支え合って構成されていていつも感動させられます。人間は決して孤立して生きられるようにはつくられていない』。つまり、人間とは、他のひとびとと互いに関わり合い支え合ってしか生きられない生物だということです。別の言い方をすれば、人間とは、“関係としての存在”、人や社会や自然などと関わり合い支え合ってしか存在し得ない生き物だということです。
よく“社会は人なり”とか“組織は人なり”と言われますが、“社会とは支え合う仕組み”なのであります。したがって、社会的存在としての人間を育てるという意味で大事なのは、“関係の在り方”を学ばせることだと思います。
それには、共同生活、集団生活がとても有効です。同じ釜の飯を食べ、寝起きを共にし、協同で作業をする。
そのことで自然と人間関係の在り方が学べ、人格が培われるわけです。
昔、江戸時代後期から明治後半頃まで西日本各地に“若者宿”とか“若衆宿”と呼ばれるものが存在したんですが、特に有名なのが幕末の薩摩藩における「郷中宿」という薩摩独自の教育機関ですね。若かりし日の西郷吉之助(隆盛)を郷中頭として、大久保利通、大山巌、西郷従道、東郷平八郎などがそこで育った。
また、幕末に長州藩の萩で吉田松陰が営んだ「松下村塾」からは、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、井上馨、品川弥次郎など、多くの明治維新の立役者を輩出した。さらに、同時期の大坂には蘭医の緒方洪庵が運営する「適塾」があり、そこでは30名の若い塾生たちが30畳の部屋で共同生活をしながら蘭学を学んでいた。その中から 大村益次郎、橋本左内、福沢諭吉、長与専斎、大鳥圭介、箕作秋坪といった維新後の近代日本の基礎を築くことになる多くの人材が育ったんですね。
これらに共通しているのは、若者達が集団生活、協同生活を通して学ぶという、まさに理想的な社会教育システムだったということですね。
協同生活では、自分のことだけ、自分の利害や都合ばかり考えていたらうまくいきません。お互い支え合いながら生活するわけですから、皆のためにと他者を意識して、すなわち皆の利害や都合を考慮して行動しなければならないため、自然と「どう行動したら皆から信頼され感謝されるだろうか?」という人間関係の在り方(=社会性)が学べ、身についていくわけです。
そのような役割は、昔なら若者宿とか塾、あるいは寄宿舎などが担っていたわけですが、今日では信陽舎のような学生寮こそが、その役割、つまり“社会性=人間関係の在り方”を学ぶ場としての役割を担うべきだと考えます。
信陽舎は武蔵野市の高齢者福祉施設(桜堤ケアハウス)と合築した全国でも珍しい学生寮で、4階建ての建物は「春秋館」と名付けられ、学生(寮生)と高齢者の交流が行われ注目されています。
少子高齢化と多様性が急速に進むと予測されるこれからの社会においては、高齢者と若者、健常者と弱者の共生が課題となってきます。その意味において、寮生と高齢者が共生する信陽舎は時代を先取りした“モデルケース”とも言え、まさに人格を培う場としての信陽舎の存在価値は大きいと自負いたしております。
信陽舎の運営に当たっては、寮生たちが明るい未来のための糧(財産)となるような充実した寮生活を送ってもらえるよう、一人一人に寄り添い、その成長していく姿を見守りながら運営していきたいと思っています。寮生の成長する姿を眺められるのが私の無上の喜びです。
信陽舎に学び、社会に羽ばたいて行く寮生たちに、座右の銘としてシャトーブリアンの次の言葉を贈りたい。
「人間が自分ひとりで生きて行けるなどとは何と思い上がった若者よ、力を授かった者は、それを隣人のために使わなくてはならぬ!」
法人概要
名称 | 公益財団法人信陽舎 |
所在地 | 〒180-0021 東京都武蔵野市桜堤1-9-9 (春秋館) |
創立(寮) | 明治39年(1906年)11月23日 |
財団認可 | 大正13年(1924年) 7月13日 |
公益法人認可 | 平成23年(2011年) 3月25日 |
TEL/FAX | 0422-51-0218 |
アクセス
交 通 |
① JR中央線武蔵境駅北口 6番バス乗り場から、小田急バス「団地上水端行」に乗車 ② JR中央線武蔵境駅北口から 徒歩 20分 ③ 自転車で武蔵境駅又は大学まで通学している寮生もいます |
今日までの歩み
明治39(1906)年 | 東京市小石川大塚町に木造2階建ての寮舎を開設(11月23日) |
大正13(1924)年 | 財団法人の認可を受ける、初代理事長高橋錬逸(7月13日) |
昭和 2(1927)年 | 震災後の区画整理事業の対象になり、杉並区馬橋3丁目に移転(10月16日) |
昭和20(1945)年 | 東京大空襲に被災・全焼(5月23日)、残留寮生はアパートを借り協同生活に入るが翌年解散、以後空白時代 |
昭和31(1956)年 | 馬橋跡地を処分し、武蔵境に中古邸宅を購入寮再開、開寮式(9月17日) |
昭和34(1959)年 | 新館建設工事完成落成式(10月25日)、寮生募集域を全県一円に拡大 |
昭和49(1974)年 | 時代の流れを受けて全館個室制に移行(4月1日) |
平成 5(1993)年 | 老朽化の激しい寮舎再建の方向として武蔵野市の協力を受け、市の福祉施設「ケアハウス」と寮の併設の合意ができ、基本契約書を締結(6月11日) |
平成 8(1996)年 | 新寮舎工事完了、工事中一時閉じていた寮を再開(4月1日) |
平成23(2011)年 | 公益財団法人の認可を受け(3月25日) 移行(4月1日) |
組織・役員
【評議員】 | 片桐 勝臣 |
上松 三治彦 | |
福田 璋夫 | |
鈴木 昭夫 | |
牧野 憲治 | |
浅沼 弘愛 | |
井上 潔 | |
五島 久揮 | |
山口 章裕 | |
青柳 淳英 | |
吉村 信二 | |
小林 隆 |
【役員】 | 理事長 | 福與 卓臣 |
副理事長 | 深澤 克巳 | |
常務理事 | 池野 兼浩 | |
常務理事 | 坪木 崇 | |
常務理事 | 岩原 優 | |
理事 | 林 史典 | |
理事 | 竹村 治恭 | |
理事 | 伊原 江太郎 | |
理事 | 中村 克己 | |
理事 | 田尻 実 | |
理事 | 原 誠 | |
理事 | 田中 淳一 | |
監事 | 後田 健太郎 | |
監事 | 松澤 直紀 |
財務諸表
貸借対照表
正味財産増減計算書
寮生の出身高校
北信 | 飯山(飯山北・飯山南)、更科農業、篠ノ井、須坂、須坂創成(須坂園芸)、須坂西、 須坂東、中野西、中野立志舘(中野実業)、長野、市立長野、長野高専、長野工業、 長野商業、長野西、長野東、長野南、長野吉田、松代、屋代、長野俊英、 長野日大(長野中央) |
東信 | 上田、上田染谷丘、上田千曲、上田東、上田西、小諸、小諸商業、野沢北、野沢南、 丸子修学館(実業)、佐久平総合技術(北佐久農業)、佐久長聖 |
中信 | 池田工業、大町岳陽(大町)、木曽青峰(木曽西)、田川、豊科、松本県ケ丘、 松本蟻ケ崎、松本筑摩、松本深志、松本美須々ケ丘、南安曇農業、 東京都市大塩尻(武蔵工大二)、松商学園、松本国際、松本第一 |
南信 | 赤穂、阿智、阿南、飯田OIDE長姫(飯田長姫・飯田工業)、飯田、飯田風越、 伊那北、伊那弥生ケ丘、岡谷工業、岡谷東、岡谷南、上伊那農業、駒ヶ根工業、 下伊那農業、諏訪清陵、諏訪二葉、松川(塚原天竜)、東海大諏訪(東海大三) |
県外 | 愛知、小石川工業、創価、仁川学院、日大杉並、時習館、常盤大附属 |
寮生の在籍大学
国公立 大学 |
東京大、一橋大、東京工大、東京外語大、東京学芸大、東京農工大、東京医科歯科大、 東京電気通信大、首都大東京(東京都立大)、東京海洋大、東京教育大(現・筑波大)、 横浜国大、等 |
私立大学 | 早稲田大、慶応大、明治大、中央大、法政大、日本大、青山学院大、立教大、上智大、 駒沢大、専修大、学習院大、東洋大、東京経済大、東京理科大、東京電機大、 日本獣医生命科学大、国際基督教大、北里大、成蹊大、成城大、國學院大、亜細亜大、 東京農業大、東京工科大、工学院大、二松学舎大、杏林大、日本体育大、武蔵野大、 帝京大、帝京平成大、国士舘大、拓殖大、東海大、東京都市大、高千穂大、立正大、 桜美林大、順天堂大、日本医科大、武蔵野薬科大、東京薬科大、武蔵野美術大、等 |